クリスチャンパートナーズの活動

クリスチャン パートナーズ(英語名、Partners International Japan)は世界中で様々な宣教活動をしているPartners International の一員として1984年に発足しました。わたしたちはボランティア活動としてインドネシア、西カリマンタンの児童や学生への学費援助及びガーナへの必要な自立支援を行っています。そのための援助金を現地に送っていますが、ご協力いただければ幸いです。詳しくはホームページ、あるいは下記にご連絡頂ければ幸いです。
事務局 〒422-8053 静岡県静岡市駿河区西中原2-7-63-111 竹澤三佳子方
郵便振替口座 00150-0-134994  加入者名 クリスチャンパートナーズ
E-mail sunflower818@hw.tnc.ne.jp
理事長 木ノ内 一雄
理 事 岩崎 俊夫 神田 道彦 木ノ内 和美 竹澤 三佳子 鳥海百合子 宮沢 玲子
監査役 奈須 輝美

2014年9月7日日曜日

プニティ・アナスタシス教会訪問


 
昨年クリスマスに受洗した姉妹
 8月の11日から18日まで西カリマンタンを訪問しましたが、17日の主日礼拝はプニティ・アナスタシス教会で守りました。この教会は安東栄子という一人の日本人宣教師の死によって建てられました。彼女が亡くなったのは自動車事故で神学校の第一回目の卒業式の翌日でした。しかし、卒業生たちがこの地で伝道を始めたのです。イスラムの人たちが多く住む伝道の困難なところで、最初の教会は住民に焼打ちにされました。今回の旅を引率された太田裕作牧師は、この土地に宗教的対立を持ち込んだのはわたしたちだった、と言われました。その反省に立ち、再び教会が建てられました。それがこの教会です。この教会の屋根には十字架がありません。時間はかかっても地域に受け入れられるまで待つことの大切さを知っているのです。

デシ姉の家族
この教会の二人の女子高校生が昨年のクリスマスに洗礼を受けました。二人とも三年生で、神学校と大学に進学を志しておられました。後、その内の一人デシ姉の家に立ち寄ることが出来ました。彼女は華人系インドネシアの方で家を入ると先祖を祭る儒教の壇がありました。母親が最近亡くなったとのことで、父親はずいぶん気落ちされているようでした。
多くの家庭では子供を大学に上げるのは難しいのが現実でした。インドネシアではリバイバルが起こりますが、彼らを導く指導者が少なく、その機会を用いられないようでした。このような学生が上級学校に進むことが出来れば将来どれほど大きな働きが出来るか分かりません。





 このような青年の為に学費援助をしたいと思われる方は、どうかご連絡ください。
(木ノ内記 E-mail kazuo.kinouchi@gmail.com)
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2014年3月25日火曜日

第92号

通信「巻頭言」

みんなで生きる

 4人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして、穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。    マルコによる福音書23節〜5
理事長 木ノ内 一雄
 主イエスの伝道はガリラヤを中心としたものでしたが、その拠点はガリラヤ湖の北にある町カファルナウムでした。主イエスのところに大勢の群衆が御言葉を聞くため、また病気を癒してもらうために集まって来ました。その中に中風の人を運んで来た4人の男がいました。ところが家は人でいっぱいだったので彼らは屋根に上り、穴をあけ病人をつり降ろしました。わたしたちから見ると、考えられない事ですが、当時の、いや今でも多くの国では家の造りは驚くほど簡単で、土をこねて壁を作り、屋根は木と枝を敷き、土を上に被せるだけのところがあります。雨期には雨漏りがし、また草も生えますが、さほど支障なく生活する事が出来るのです。ものを置いたり休んだり、また時にそこで祈ったりもします。屋上に穴をあけても簡単に修復できるのです。
 わたしたちが不思議に思うのは、主イエスは連れて来た4人の信仰を見て中風の人を癒されたということです。なぜ中風の人の信仰は見なかったのでしょうか。その訳は、わたしたちは一人で生きているのではなく、人との繋がりの中で生きているということにあります。例えば、夫婦の一人が病めばもう一人も苦しみます。家族の一人が病めば、家族全員が苦しみます。同じことは教会にも、社会にも言えます。30年前、西カリマンタンのスラム街を訪問した時、そこに住む人々の悲惨な生活を見て涙が出ました。また数年前アフリカを訪問した時も同じように心が痛みました。わたしたち人間は連帯性を持っているのです。一人が苦しめば他の人も苦しみ、一人が喜べば他の人も嬉しくなります。

 神はわたしたちの罪を赦すために人となり、十字架に付かれました。人の罪を赦すためにはご自身が人にならなければなりませんでした。人間が犯した罪は人間でなければ購うことは出来ないからです。同時にそのお方は神でなければなりませんでした。聖なる神だけが人の罪を赦すことが出来るからです。主イエスの死によって初めて神との霊的な交わりは回復されたのです。中風の人を連れて来た4人は中風の人と連帯して生きているのです。わたしたちは家族と、また世界の人たちと連帯して生きているのであって、自分だけが孤立して生きている訳ではありません。わたしたちは「みんなで生きる」のです。

2013年12月10日火曜日

無価値な者への神の愛

(通信「巻頭言」 第91号より)

マルコによる福音書10章13節~16節




村の一家(ガンビア)
  マラリアは感染した蚊に刺されることにより人に感染しますが、厚生労働省検疫所の資料を見ますと2010年には推計で66万人がこの病気で亡くなっています。そして、その殆どはアフリカの小児です。数年前にアフリカに行きましたが、そこでの会議中、出席者の一人が挨拶を終えると家に帰って行きました。訳を聞くと、彼の三人の子供の一人はマラリアで死に、今、また娘がマラリアにかかっていると言うのです。アフリカでは親は子供が成長するまで余り愛情を注ぐことはできないようでした。子を失う痛みは耐えられないからです。

主イエスの時代も同様でした。主イエスに子供たちを祝福してもらうのは意味があったのです。ところが弟子たちは子供たちを連れて来た人々を叱ったのです。なぜなのでしょう。多分、弟子たちは主イエスにエルサレムに上り、神の国を樹立してもらうつもりだったからです。主イエスは王になり、自分たちも支配者として重責を担うつもりでした。神の国はエルサレムに始まり、近郊の国々、そして世界の果てにまで及ぶのです。大切な使命を帯びているこのお方をそのようなことで煩わせてはならなかったのでしょう。

しかし、主イエスはそのような弟子たちを見て憤られました。悲しまれ、心を痛められたのです。なぜなら、神である主イエスがこの世に来られたのは一人で生きることのできない子供、生きる意味や価値を見出すことのできない孤独な者や病人、老人、罪人のためだったからです。そのような人を主イエスは招かれ「抱き上げ、手を置いて祝福され」たのです。

弟子たちの夢は結局、砕かれてしまいました。主イエスは神の力で戦うことはなされず、民と指導者に裁かれ十字架に付けられたからです。しかし、主イエスは三日目に墓から甦られました。弟子たちは神の使命に立つ強い者でしたが、主イエスの死後、弱く、無価値な者となったのです。その弟子たちの心に主イエスは霊となって宿られました。それが五旬節(ペンテコステ)の出来事でした。主イエスは弱く無力なわたしたちの心に宿るのです。医療の手が及ばないアフリカの子供たちを憐れみ、共におられ、祝福されるのです。わたしたちの本当の幸せは主イエスが共にいてくださる、ということなのです。

2013年5月15日水曜日

心を騒がせるな・・・

(通信「巻頭言」第89号より)

ヨハネによる福音書141

 

ガンビアの海岸にて
人はどれ程幸せそうに見えても何か問題を抱えているのではないでしょうか。明日のことは分かりませんし、過去にも問題はなかったと言える人はいないと思います。主イエスの時代から二千年の歳月が経ち、当時考えられないような科学技術が進歩し、生活は一変しました。しかし、わたしたちの心は当時と変わっていません。二年前、アフリカのガーナ、セネガル、ガンビアを訪問しましたが、人々は昔から続けてきたと思われる圧倒的な貧しさの中でもたくましく生きていました。心の悩みや苦しみは貧富とは関わりなく、時代と共に変わることもないのです。

  主イエスは弟子たちに「心を騒がせるな」と言われました。主イエスはもうすぐ十字架につけられることを御存知でした。それは御自身の死の苦しみに加え、全人類の罪を負って神の裁きを受けるという苦しみでした。しかし、それはわたしたちの罪が赦される唯一の道で、そのために主イエスは天の父のもとからこの世に遣わされて来たのです。それに対し、弟子たちは主イエスはエルサレムで王となり、ローマ帝国の頸木からユダヤを解放し、神の国を建てられると信じていました。それが当時の一般的なメシア理解だったのです。彼らは主イエスと一緒に神の国を治めるつもりでした。しかし、弟子たちの夢は砕かれ、命は危険にさらされ、深い挫折を味わうことになるのです。わたしたちもしばしば神がおられるのならなぜこの世を神の国となされないのか、なぜこのような苦難や悲しみが自分の身に及ぶのかと不思議に思うのです。そのような時、全てが信じられなくなり、苦しみもがくのです。
  主イエスはそのような弟子たちに「神を信じなさい」と言われました。神はこの世を創られました。創造とは無から有を生み出すことです。その神に、不可能なことはありません。主イエスの十字架は無力のように見えますが、そこに神の力が現われているのです。そして、神は十字架で死んだ主イエスを三日目に甦らせました。神は命であって、神の前に死はないのです。
  主イエスは「わたしをも信じなさい」と言われました。死から復活された主イエスこそ「この世を歩かれた神」なのです。主イエスは今も生きておられ、信じる者に御自身の霊を与えられます。わたしたちの心には空白感がありますが、この心の苦しみ、悩みを癒してくださるのは、神だけであって、主イエスの霊によって心を満たされる以外にはありません。主イエスの十字架はこの世の終わりでしたが、永遠の命の始まりでもありました。わたしたちの苦しみ、悲しみは主イエスの十字架へと導くものです。それによって主イエスと共に永遠の命に生きるためなのです。過ぎ去りゆくこの世と、永遠の命とでは比較できません。多くの人が苦しみ、悩んでいるこの時、主イエスの言葉はわたしたちの心に喜びと平安をもたらします。

2012年10月21日日曜日

アフリカを旅して

2012年秋季号 QK88

季刊「教会」からの転載

ガンビアの女の子
昨年(2011年)の9月、ガーナ、ガンビア、セネガルを訪問しました。アフリカに行くのは初めてでした。この旅行はわたしが関係するクリスチャンパートナーズの働きの一環なので、その会と活動についても初めに少し触れておきたいと思います。
 1984年、まだ外資系の会社に勤めていた頃でした。パートナーズインターナショナル(以後、PIと略す)という米国の海外援助団体の代表が来日し、関係者が何人か集まりました。それを機にその年の12月に日本のPI(クリスチャンパートナーズ)が発足しました。
 理事会で具体的な援助活動を模索している時に米国出張があり、PIの事務所に立ち寄ると、スポンサー・ア・チャイルド(SAC)を勧められました。精神里親を募り途上国の子供の学費を援助するというものでした。理事会で承認され、PIシンガポールからもインドネシア、西カリマンタン西海岸にあるポンティアナックの子供たちの写真が送られて来ました。
 1986年に初めて現地を訪問しました。その時、極めて不衛生な環境の下で人々が生活していることに衝撃を受けました。湿地帯にバラックが広がり、木で作った通路の上で子供たちが裸で遊んでいました。夜は薄暗いランプの生活、そして淀んで汚い水路で洗濯し、そこで体も洗っていました。その時の体験がこの活動の原点になりました。しかし、八年後、神学校に入ったのを機に理事を辞めさせて頂きました。ところが、6年前、理事長になってほしいと頼まれ、再びこの活動をすることになりました。
 その頃、日本で農業研修を終えて帰国したガーナの牧師からプロジェクト支援の要請がありました。求めに応じて数度、援助金を送ったのですが、本格的援助は一度現地を見てからにした方がよいということになっていました。昨年、PI米国代表のアフリカ旅行に同行が許され、現地を見る機会が与えられました。
 ガーナは英語が公用語です。貧しい国ですが、政治的には比較的安定しており、治安も悪くありません。南部と北部に大きく分かれ、北部は南部に比べて開発が進んでいません。今回、訪問したのは北部でした。ガンビアとセネガルはフランス語が公用語です。都市部は西欧的ですが、貧富の差は大きく、都市の一部はスラム化していました。農村部は三カ国とも大きな違いはないように思えました。
 都市にある教会は欧米の教会と特に大きな違いはありませんでした。ただ非常に解放的で、礼拝ではドラム等の楽器を用い、歌も多く取り入れていました。農村部の教会は土着化し、ドラムの他、歌、踊りと賑やかでした。
 小学校は町では目にしましたが、村の中にはあまり見かけられませんでした。インドを訪ねた時は、村々で子供たちが大きな木の下で先生を囲んで学んでいたのを思い出し、その違いを考えさせられました。
 村に入ると、大勢の人たちが集まり、子供たちが走って来ました。日本では水道や電気、ガスのない生活は考えられません。しかし、ここではそれが現実でした。家は土の壁が外と内とを隔てているだけでした。毎日水で身体を洗っているのでしょうか。土で汚れたままの子供たちや皮膚がところどころ白っぽく変わっている子もいました。紙も鉛筆もなく本も見当たりませんでした。食事は穀物を臼でつき、その粉を練り、右手でちぎって口にしていました。村と村は遠く離れて孤立し、医者も看護師もいませんでした。昔から続いている生活がそこにありました。
 村では児童養護施設も見ましたが、七、八人の子供を収容できる薄暗い部屋が幾つかあるだけでした。隅に数枚の汚れたマットがあり、夜、敷いて寝るのですが、上に掛けるものも蚊帳もなく、黄熱病、コレラ、マラリヤなどの熱帯地方特有の病気で死ぬ人が多いと聞き、そこにいた子供たちのことが気がかりでした。そのような環境にも拘らず、彼らは一様に明るく、目がキラキラ輝いていて屈託がありませんでした。
 どこの村にも電波塔や簡単な自家発電機があり、携帯電波が通じました。そのため携帯電話を持っている人もいました。村にはテレビも数台ですがありました。誰とでも話が出来、また世界の出来事が自分たちのところにも入って来る、それは革命的な出来事に違いありません。自転車やオートバイ、自動車があれば隣の村や町に行くことが出来ます。広い世界を知って村人たちは自分たちの置かれている状況をどのように考えているでしょうか。
 わたしたちにとっては車が村々を回る唯一の交通機関でした。丁度、雨季の終わりの時期でした。水が溜まっている悪路からなお奥地に入る時、二台に分乗していた車を一台にすることになりました。その時、彼らはドイツ車ではなくランドクルーザーを選びました。トヨタ車に対する人々の信頼は相当なものでした。そして車だけでなく、日本はすべてにおいて進んだ国だと心から思っているようでした。
 わたしはと言えば遠いアフリカに来て、その圧倒的な貧しさを目にして気が引けていました。わたしたちの会が出来るわずかな援助が彼らにとって何になるのでしょうか。大海の一滴にもなりません。これがかつて西カリマンタンを訪れた時との大きな違いでした。そのことを率直に伝えますと、「援助だけを望んでいる訳ではなく、日本に繋がっていたいのだ」と言いました。日本と日本人の存在は彼らに勇気を与えるというのです。アジアの国々を回った時もそうでしたが、アフリカの人にとっても日本は特別な国でした。資源のない貧しい国だった日本、戦後の焦土から立ちあがり、今回の津波からも立ち上がることのできる国、それは彼らの心の支えになる国でした。その国の人たちに祈ってもらうことで「わたしたちだって出来る」と思えるというのです。それを聞いて初めて今回の旅行の意味と目的が分かりました。そのような彼らの気持ちを少しでも受け止めていければと思いました。
 欧米の伝道には長い歴史があり、奥地にも宣教師のための宿泊施設がありました。彼らと一緒でなければこのような旅行は出来ませんでした。それに対し、日本の多くの教会は自分たちの抱えている問題だけで背一杯で、このような世界に目を向ける余裕はありません。自分たちの問題にもっと目を向けるべきだと考える人たちもいるでしょう。しかし、わたし自身、忙しい生活の中でこの会と共に歩んで来て良かったと思っています。
 主イエスは「あなたがたで、あの人たちに何か食べるものをあげなさい」と言われました(マタイ14章16節)。アジアやアフリカの人たちに重荷を覚える方がおられましたら、是非ご連絡ください。

2011年11月20日日曜日

エイモス・バンマリグ師をガーナに訪ねて

月報「かわごえ」第139号からの抜粋

 2011年9月にガーナ、ガンビア、セネガルの三カ国を訪問する機会を得ました。同行したのはPI USAの代表夫妻と現地宣教団体の方でした。
 ガーナでは以前、アジア学院の研修生として日本に滞在され、川越教会の礼拝にも数回出席されたエイモス・バンマリグ牧師を訪問することが出来ました。それは今回のわたしの旅行の目的でもありました。
 ガーナは比較的政治も安定し治安も良いと言われますが、豊かとは言えません。北と南に大きく分けられますが、北は特に貧しく南より遅れています。
 アクラから国の中心部に位置するタマラまで飛行機で行き、そこから更に車で北に行きました。その途中にウオルウオルという町があり、そこから更に二、三時間、悪路を走ったところにエイモス師が住むヤマという村がありました。この間に他の村はなく原野が続いていました。出発が遅れたため約束の午前11時を大分遅れて午後1時半頃着きました。朝早くからわたしたちの到着を待っていたとのことでした。
 直ぐに教会に案内され礼拝が始まりました。ドラムに合わせて歌に踊りとエネルギッシュで、日本とは大違いです。前もって頼まれていた説教をし、エイモス師が通訳しました。その中でわたしが名誉村長となる儀式がありました。
 礼拝が終わってからエイモス師が行っているプロジェクトを見学しました。最初に行ったのは農業訓練センターでした。出来たばかりの建物を前に開所式のセレモニーが行われました。エイモス師はこのプロジェクトに力を入れており、アジア学院で学んだことが役に立っているとのことでした。研修生も何人かいました。次に、行ったのは児童養護施設でした。薄暗い部屋に一部屋に七、八人の子どもが泊まれる部屋がいくつかあり、また炊事場もありましたが炊事道具や食器などは何もありませんでした。子供たちが何人かいましたが、夜は汚れてぼろぼろになったマットを引いて寝るだけで、上に掛けるものもなく子供たちの置かれた劣悪な環境に心が痛みました。
 その他には、二、三の近隣の村で進めている伝道計画、チャーチ・プランティング・プロジェクトの説明がありました。
 エイモス師は一人で多くのプロジェクトを進めていました。村の状況を考えますと止むを得ないのかも知れませんが、同行した人たちからは、彼だけでは無理があるのではないか、また教会の長老会が十分に機能していないのではないかとの指摘がありました。ただ、チャーチ・プランティング等のプロジェクトには協力できるのでこれからも援助したいと言っていました。
 クリスチャン パートナーズでは設立以来、西カリマンタンの子供たちの学費援助に力を入れて来たので、ガーナでも同じようにしたいと考えています。その観点からは、エイモス師の進めているプロジェクトの中では児童養護施設への援助が良いのではないかと思われました。
 初めてのアフリカ旅行でした。お腹を壊すこともなく健康が守られたのは何よりでした。また、旅をしていて色々と気が付いたことなど書きたいことがありますが、次の機会にしたいと思います。


(注)通信第85号にも記載されていますので、ご覧下さい。

写真

2010年2月5日金曜日

新たに生まれる

通信第80号「巻頭言」より

ヨハネによる福音書31節~15

 ニコデモは夜、主イエスのところにやって来て言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」。ニコデモはサンヘドリンと呼ばれるユダヤ最高法院の「議員」でした。その彼が主イエスに国の指導者、支配者を代表して挨拶したのです。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことができないからです」と。
 「夜」とは「暗闇」であって、ヨハネの福音書ではその言葉には特別の意味があります。それは「この世」であって、「無知」、「罪」の象徴でした。「しるし」とは奇跡のことで、それによってニコデモは主イエスの語られる言葉もまた神から出ていることを認めると告白したのです。そのニコデモに主イエスは答えられました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。「新たに」はギリシャ語のアノセンで、「上から」と「再び」の意味があります。夜来たニコデモは「再び」の意味に取り「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言いました。それに対し主イエスは「だれでも水と霊によって(新たに)生まれなければ、神の国に入ることはできない」と彼の言葉を正されました。
 主イエスは御自身が「天から降って来た者」と信じる者たちを「わたしたち」と呼び、ニコデモを「あなたがた」と呼んで明確に区別しています。ニコデモは主イエスをあくまで人、つまり旧約聖書の預言者の一人のように見ていたのです。彼は神が主イエスを通して働かれているのを見ましたが、主イエス御自身が神であるとは信じられませんでした。
 わたしたちはどうでしょうか。主イエスをどのように信じるかによって「わたしたち」と呼ばれるのか「あなたがた」と呼ばれるのかが決まります。もし、「あなたがた」であるなら、神の国に入るために主イエスを神の子と信じ、「新たに生まれる」ことが求められます。かつてわたしたちは新しい年の初めには全てが新しくなると考えていました。しかし、私たちが「新たに生まれる」のは主イエスによるのです。
 年の初めに当たって、皆さんにとって今年も良い年でありますようお祈りいたします。